日本的経営が誕生した理由は何か
日本的経営は、江戸時代から続く日本の伝統的な経営ではありません。その先駆的な実践例が20世紀の初頭から見出されるにせよ、完全に普及して、定着したのは1960年代という歴史の浅い経営方法です。日本的経営が、どのような動機で考案され、普及していったのかを明らかにします。
ポッドキャストを始めました
このたび、Spotify と YouTube Music で、ビデオ・ポッドキャストを始めました。みなさんの中には、既に有料もしくは無料で、Spotify あるいは YouTube Music の音楽ストリーミング・サービスを利用している人もいることでしょう。実は、これらのサービスは、ポッドキャスト番組も配信しています。ビデオ・ポッドキャストなら、通常のYouTube動画のサービスと同じと思うかもしれませんが、ポッドキャストならではの利点が二つあります。
第一に、ポッドキャストの場合、エピソードを端末に一時保存して、オフラインで(したがって広告なしで)視聴できます。YouTube動画のダウンロードは規約違反になりますが、YouTube Music のポッドキャストはそうではありません。楽曲のオフライン再生は、Spotify でも YouTube Music でも、プレミアム会員限定ですが、ポッドキャスト番組の方は無料会員でもできます。たくさんのビデオを保存できるほど容量が端末にないという人は、視聴後にそのつど削除すればよいでしょう。手間がかかるとはいえ、外出時に通信費用をかけずに視聴できるのは、大きな利点です。
第二に、ポッドキャストの場合、同じクリエイターのコンテンツを時系列に沿って、視聴し続けられます。これは長時間流し続けるときに便利です。YouTube動画の場合、プレイリストで再生する場合を除けば、プラットフォームのアルゴリズムに従って、関連動画が次々に再生されます。それが適切な動画ならよいのですが、必ずしもそうとは限らないので、この点、ポッドキャストの方が予見性が高くて、安心してつけっぱなしにしていられます。
ポッドキャストは、もともとアップルが始めたサービスですが、最大市場の米国でポッドキャスト・プラットフォームの主役の座を争っているのは、YouTubeとSpotifyです。主流はオーディオ・コンテンツでしたが、現在では、ビデオ・ポッドキャストが人気となっています。ビデオ・ポッドキャストなら、動画を視聴することもできれば、音声だけをながら聴きすることもできるので、選択の幅が広がるからなのでしょう。私も、視聴者の選択の幅を広げるために、ポッドキャストを始めました。Spotify でも、YouTube Music でも、「永井俊哉チャンネル」でアプリ内を検索してくれれば、すぐに見つかります。ウェブ上では、以下のリンクでアクセスできます。
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動画トランスクリプション
終身雇用、年功序列、企業別労働組合を特徴とする日本的経営は、江戸時代から続く日本の伝統的な経営ではなくて、20世紀になって登場した歴史の浅い経営方法です。このプレゼンテーションでは、日本的経営が、どのような動機で考案され、普及していったのかを明らかにします。
第一章 日本的経営とは何か
日本的経営とは、欧米には見られない日本企業特有の経営慣行のことです。その特徴は、定年まで従業員を雇用する終身雇用にあります。欧米では、特定の会社に一生を捧げるという人はあまりいません。日本企業は、職能に応じた賃金を労働者に支払っていますが、職能は主として年功に基づいているため、日本企業は年功序列であると言われます。これに対して、欧米の企業は賃金を職務によって決めます。管理職では、成果によって報酬が決まる成果主義を採用しています。日本の労働者は、複数の企業を渡り歩くことを想定していないので、企業別労働組合に所属しています。これに対して、欧米の労働者は、転職を前提に、企業横断的な産業別あるいは職業別の労働組合に所属しています。以上の三つが日本的経営の三種の神器と言われている特徴ですが、それ以外にも、違いがあります。日本企業では、新しい人材が新卒一括で採用されるのに対して、欧米の企業では、欠員が生じると、その職務にふさわしい人材が外部から補充されます。それは、日本企業では、雇用スタイルの類型が、ジェネラリス擦り合わせ型であるのに対して、欧米の企業では、スペシャリスト組み合わせ型であるからです。実は、19世紀の末まで、日本の経営スタイルは欧米と大差ありませんでした。そこで、次の章では、20世紀初頭に登場した元祖日本的経営の成立事情を確認することにします。
第二章 日本的経営の先駆者
日本的経営の先駆者は、武藤山治が鐘紡で実践した家族主義的な温情主義的経営です。それは、父が家族を温情で保護するように、経営者は従業員を温情で保護しなければならないというパターナリズム、すなわち父親主義に基づく経営です。武藤は、1894年に、鐘紡兵庫分工場の支配人に就任し、成果を上げて、1921年に、社長に就任しています。兵庫分工場に就任した当時の経営課題は、職工の定着率が低く、熟練職工が育たないことでした。そこで、武藤は、待遇改善で定着率を向上させ、長期雇用で社内教育を充実させようとしたのです。具体的に言うと、
高賃金による職工の優遇
不解雇主義による長期雇用
企業内学校での無償教育
男女職工の社員への昇格
福利厚生施設の充実
無料の医療サービス
共済組合の設立
といった当時としては異例の好待遇です。鐘紡は非常に成功した企業であったため、大正時代になると、鐘紡を模倣する企業が増えました。それゆえ、武藤は、日本的経営の先駆者とみなされるのです。
第三章 起源に関する諸仮説
日本的経営の起源に関しては様々な仮説がありますが、現在最も支持されているのは、戦時経済説です。1993年に出版された本の中で、岡崎と奥野は、日本的経営が「1930年代から40年代前半にかけての日本経済の重化学工業化と戦時経済化の過程で生まれた」と主張しています。この説は、1995年に出版された野口悠紀雄著の『1940年体制』で有名になりました。しかし、武藤を日本的経営の祖と見做すなら、戦時経済説は成り立ちません。武藤の家族主義的温情主義の経営は、1905年にほぼ完成しています。これは、日本が戦時経済体制に移行するよりずっと前のことです。また、鐘紡の紡績業は軽工業で、重化学工業ではありません。ゆえに、戦時経済説は否定されます。もちろん、1930年代以降、それまで自由放任であった経済が混合経済に移行したことは事実ですが、民間での日本的経営の実践は、それ以前からあったということです。そこで、明治時代に何か模範がなかったのかということになります。社会学者の小熊英二は、明治時代の奏任官が勤続年数に応じて俸給が右肩上がりになった制度が日本企業の年功賃金と類似していることを根拠に、官制が日本型雇用の起源だという説を提唱しています。しかし、官制模倣説も、武藤を日本的経営の祖と見做すなら、否定されます。武藤は、慶應義塾での恩師、福沢諭吉の影響で、官僚嫌いでした。福沢の独立自尊の精神を受け継いだ武藤が、官庁の制度を模範に会社を組織化したということはありえません。また、官吏任用制度と日本的経営との間には、重要な違いがあります。明治時代の任用では、高等官と判任官という身分差別があり、判任官が高等官に昇格することは困難でした。この身分差別は、現代の官僚制度においても、キャリア官僚とノンキャリア官僚という形で残存しています。これに対して、日本的経営では、職工と職員という戦前の身分差別、今の言葉で言うと、ブルーカラー労働とホワイトカラー労働の身分差別を1960年代に克服しました。しかし、武藤は、それよりもずっと前に、男女を問わず、職工に教育を施し、中間管理職へと内部昇格させる制度を先取りしていました。この点で、官僚よりも武藤の方が日本的経営の先駆者にふさわしいと言えます。では、武藤は何から影響を受けたのでしょうか。武藤の評伝を書いた山本長次は、武藤の方法に近世の商家経営の再生という要素があると指摘しています。たしかに、江戸時代の商家には、丁稚、手代、番頭という内部昇進の年功序列がありました。しかし、丁稚の大半は、昇進できずに、暇を出された、つまり解雇されたので、江戸時代の商家には、日本的経営の本質的特徴である終身雇用の慣行がありませんでした。その慣行を始めたのは、武藤ですから、武藤より前に日本的経営の先駆者はいなかったということになります。
第四章 武藤が範を仰いだ人々
武藤に最も影響を与えた思想は、福沢諭吉の独立自尊の精神です。福沢は、『学問のすすめ』で、官頼みの民間事業者を痛烈に批判しています。
およそ民間の事業、十に七、八は官の関せざるものなし。これをもって世の人心ますますその風に靡き、官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂い、毫も独立の丹心を発露する者なくして、その醜体見るに忍びざることなり。(福沢諭吉『学問のすすめ』1872-1876年. 四編. 青空文庫. )
福澤が、明治政府から出仕を求められたにもかかわらず、仕官を辞退し、在野の教育者としての立場を貫いたのは、彼の独立自尊の精神ゆえのことです。福沢に心酔した武藤も、経営者として独立自尊を実現したのですが、官に依存せずに労働問題を解決しようとした結果、教育や福祉といった本来国家がすべきことまで企業内で実施し、その結果、鐘紡はあたかもミニ国家ともいうべき独立性を持つようになりました。武藤は、福沢の教えに忠実であったつもりかもしれません。しかし、武藤が鐘紡の独立自尊を高めたことで、そこで働く労働者の独立自尊が失われるという皮肉な結果が生じました。福沢が独立を求めたのは、経営者のような少数の指導者だけではなく、国民全員です。もとより、日本的経営の原型が、武藤の福沢に対するたんなる無理解から生まれたと言うつもりはありません。福沢の思想形成期には、まだ労働争議は社会問題化していなかったので、武藤は、新たな時代の問題を解決すべく、彼なりに工夫して家族主義的経営を考案したということなのでしょう。その際に参考にしたのは、フレデリック・テイラーの科学的管理法です。テイラーは、労働効率が良い大量生産方式を考案しました。生産効率の改善で増えた収益を労働者に高い賃金として還元すれば、労働者の不満を抑えられるので、労働組合や労働争議が不要になると彼は主張しました。その労使協調の理念は、テイラリズムと呼ばれます。武藤の家族主義的経営もテイラリズムの延長上にあります。もう一人、武藤に影響を与えたパターナリスティックな経営者として、ドイツのアルフレート・クルップがいます。クルップは、高まりつつあった労働運動に先手を打とうとして、住宅補助、疾病保険、養老保険などの厚遇策で、労働者を手懐け、自社への忠誠心を高めようとしました。武藤は、クルップが設立した疾病保険を参考にして鐘紡で共済組合を発足させました。日本的経営は、日本で独自に発生したと思われがちですが、実際には、欧米からの影響もあったのです。
第五章 国家のパターナリズム
ドイツ帝国の宰相オットー・フォン・ビスマルクは、クルップのパターナリズムを国レベルで採用しました。彼は、クルップに倣って、医療保険法、労働者災害保険法、養老保険法など、当時としては世界で最も進んだ社会保障制度を創設したのです。しかし、同時に、社会主義者鎮圧法を制定して労働者の運動を抑制するというアメとムチの政策を実行しました。すなわち、一方で多数の穏健派労働者をアメで懐柔しつつ、他方で少数の過激派労働者をムチで弾圧するという分断作戦で、労働者が団結して社会主義革命を起こすことを阻止したのです。同じ分断作戦をヒトラーが採用しました。ヒトラーのナチ党は、国家社会主義ドイツ労働者党という正式名称からもわかるとおり、一方で、アメとして労働者のための社会主義的政策を公約に掲げ、他方で、ムチとして共産主義を弾圧しました。すなわち、世界恐慌で深刻化した失業問題を公共事業で解決しつつ、共産主義革命を阻止したのです。日本でも、第一次世界大戦終結後、不況が長引いたので、国家社会主義の機運が高まりました。代表的な思想家は、北一輝です。彼は、1923年に『日本改造法案大綱』を出版しました。この本は、天皇が大権を発動することによって三年間憲法を停止し、戒厳令下のもと、華族制と貴族院を廃止し、私有財産の限度を設定して、限度超過財産を没収し、私企業も規模を制限して、限度超過の企業を国有化し、階級対立を解消する計画を提示しています。この計画を実現しようと、1936年に、陸軍青年将校が決起しました。いわゆる二・二六事件です。ところが、肝心の天皇が親政を拒否したため、失敗に終わり、北は実行犯たちとともに処刑されました。二・二六事件の翌年に内閣を発足させた近衛文麿は、発足直後に始まった日中戦争の長期化に備え、1938年に国家総動員法を成立させ、1940年には、労働組合を解散させ、賃金統制令を出しました。近衛が始めた新体制運動は、北が構想した革命の代替でした。また、それは、武藤が鐘紡というミニ国家で実現したパターナリズムを国家全体で実現しようとする試みでもあったのです。
第六章 パターナリズムの復活
敗戦後、日本を占領した連合国軍は、日本の再軍事大国化を阻止すべく、権威主義的なパターナリズムを解体しようとしました。連合国軍といっても、実質的には、米国であり、米国は、自国の民主主義を模範に日本を民主化しようとしました。もしもその方針のままなら、日本の経営と雇用のスタイルは、米国に近いものになっていたかもしれません。実際、1947年に労働基準法が制定された当時、終身雇用は想定されていなかったので、30日前の予告または30日分以上の平均賃金を支払えば、原則として労働者を解雇できると定められました。労働組合の方も、米国は、自国のアメリカ労働総同盟・産業別組合会議をモデルに組織化させる予定でしたが、結局のところそうなりませんでした。1947年の冷戦開始とともに、米国の対日政策が民主化から「共産主義の防壁」化へと変更されたからです。共産主義革命を阻止するためには、日本全国の労働者が同じ労働組合に加盟して団結するよりも、企業ごとの労働組合に分断され、かつ、終身雇用の労働者が企業と運命共同体になっている方が好都合です。かくして、戦前あるいは戦中のパターナリズムが、部分的にとはいえ、復活したのです。戦後の日本は餓死者が出るほど貧しかったので、生活給としての性格を持つ年功給の導入は、生活困窮者の不満を解消するのに役立ちました。また、職工と職員の身分差の解消は、職工の不満を解消するのに役立ちました。つまり、日本的経営のおかげで社会主義革命の阻止に成功したのです。日本的経営の生成過程には、大きく分けて戦前、戦中、戦後の三つの段階があります。日本的経営の起源をどの段階に求めるにせよ、それが誕生した理由はみな同じようなものです。戦前では、武藤が、離職や労働争議を防ぐために、家族主義で労働者の不満を解消しようとしました。戦中期には、深刻なデフレ下で社会主義革命が起きることを防ぐために、国家社会主義による財政出動でデフレを克服しようとしました。戦後には、米国が日本を反共の防壁とするために、戦前あるいは戦中のパターナリズムを復活させ、日本的経営が完成しました。最後に、結論をまとめましょう。日本的経営とは、本物の社会主義革命を阻止するための妥協策として生み出された疑似社会主義的な経営方法です。1991年にソ連が崩壊して以降、社会主義革命を望む人はほとんどいなくなりました。もう革命を心配しなくてもよい以上、日本経済低迷の原因となっている日本的経営をやめるべきだというのが私の考えです。