日本人の実質賃金は、1997年以降、上昇していません。かつてはデフレが原因と考えられていましたが、インフレになっても上がるどころかむしろ下がっています。その原因は何なのでしょうか。1997年に消費税の税率を引き上げたからという説を信じている人が多い中、1997年の別の出来事に注目する説が浮上しています。この記事では、日本人の賃金を抑制している本当の原因を突き止めたうえで、抜本的な解決策を提示します。
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【動画の目次】
00:14 第一章 日本経済の死角
10:29 第二章 河野龍太郎の死角
17:12 第三章 実現に向けての見通し
動画のトランスクリプション
日本人の賃金が上がらないのは、消費税を増やしたからというのは本当でしょうか。このプレゼンテーションでは、賃金低迷の本当の原因を探り当て、賃上げに有効な政策を提案いたします。
第一章 日本経済の死角
日本の実質賃金が上がらない理由は何でしょうか。著名エコノミストの河野龍太郎は、今年2月に出版した『日本経済の死角』で、こういうグラフを掲載し、日本の生産性が、1998年以降三割も上がったのに、給料はまったく上がっていないとして、「何かが、おかしい」と言っています。問題はその「何か」が何であるかです。
世間で広く信じられている説は、1997年に税率が3%から5%に引き上げられた消費税というものです。京大教授の藤井聡は、この図表において、1997年の消費税増税以降、世帯所得が実質値で下落している事実を指摘し、この時の「消費税の増税がなければ日本は豊かなままだった」と言っています。
世帯所得は、単独世帯の増加の影響も受けているので、個人の実質賃金の推移も見ましょう。世帯所得ほどではないものの、下落傾向にあります。しかし、それを消費税のせいにするのは無理があります。1997年には2%しか引き上げませんでしたが、2014年には3%も引き上げました。しかし、実質賃金は、引き上げ前に急落したものの、引き上げ後は堅調でした。
また、このグラフにもあるとおり、ヨーロッパの先進国の中には、日本以上に重い付加価値税を課している国もあります。しかし、そうした国が、日本のように長期的な経済的停滞に陥っているということはありません。長期的経済停滞のような日本にしか見られない現象の原因は、消費税のような他の国にもある制度ではなくて、日本特有の制度に求めなければなりません。
1997年には、消費税の増税よりももっと重要な出来事が起きました。それは、金融危機です。北海道拓殖銀行と山一証券が破綻し、翌年には、日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が破綻しました。この金融危機をきっかけに、メインバンク制が崩壊しました。河野はここに注目します。
従来、日本の金融機関は、護送船団方式で守られてきました。護送船団方式とは、海軍が最も遅い船に合わせて航海する船団の護衛方式のことですが、転じて、日銀と大蔵省が最も弱い金融機関ですら破綻しないように厳しく全体を規制する方式の呼称として使われるようになりました。日銀と大蔵省が護送船団方式で銀行を保護し、その銀行がメインバンクとして融資や株式の持ち合いで企業の経営を支援し、それによって従業員を長期的に雇用する日本的経営が可能になるという三段階の存続保障システムが昭和の時代には健在でした。
ところが、1996年の金融ビッグバン以降、護送船団方式の規制が緩和され、1997年から始まった金融危機で、銀行は、破綻を避けようと、貸し渋りや貸し剥がしに血道を上げ、その結果、多くの企業が倒産しました。メインバンクが頼れる存在でなくなったため、日本的経営は存続の危機に瀕します。河野は、日本企業の対応をこう説明します。
メインバンク制が不在となる中で、不況が訪れても会社を存続させ、雇用リストラを避けるためには、自己資本を厚くし、潤沢な流動性を保有する必要があります。大企業は、儲かってもリスクを取らず、国内投資を抑えるとともに、コストカットに邁進し、ゼロベアの下で人件費の抑制も続け、万が一に備えて、利益剰余金を積み上げて対応したのです。1
この日本企業の対応をデータで確認しましょう。赤のグラフは、金融業と保険業を除く全業種での利益剰余金、青のグラフは人件費の推移を示しています。緑色のグラフは、役員の給与と賞与を除いた人件費です。1996年の金融ビッグバン、および1997年から始まった金融危機以降、内部留保が積み増され、人件費が抑制されていることがわかります。青と緑の差である役員の給与と賞与も増えていません。
要するに、銀行がメインバンクとして機能しなくなったため、企業が長期雇用保障のためメインバンクの役割を担おうとし、その結果、労働分配率が低下し、内部留保が増えたということです。
労働分配率の低下をデータで確認しましょう。労働分配率は、1998年の金融危機、2008年のリーマン・ショック、2020年のコロナ・ショックのような不況期には、営業利益が急減するので、労働分配率も一時的に急上昇します。そうした一時的変動にとらわれることなく、長期的なトレンドを捉えるために、グラフに二次近似曲線を赤の実線で挿入しました。この二次近似曲線に着目すると、1960年代から1998年までは上昇傾向にあったのが、それ以降は下降傾向にあることがはっきりします。企業が賃金上昇を抑制し、内部留保を積み増した結果、リーマン・ショックやコロナ・ショックでも、長期雇用を維持できましたが、その代償が賃金の抑制と経済の長期低迷であったということです。
河野が指摘するもう一つの日本経済の死角は、労働時間の短縮です。このグラフは、昭和30年、つまり、1955年以降の一人当たり平均年間労働時間の推移を示しています。昭和62年、つまり、1987年に、法定労働時間の原則が週40時間に改正されて以降、赤色の所定内労働時間も、それに所定外労働時間を加えた青色の総実労働時間も、急速に減少していることがわかります。河野は、これが潜在成長率を引き下げ、バブル崩壊後の不況をもたらしたと考えています。
潜在成長率とは、潜在GDPの変化率のことで、潜在GDPは、現存する経済構造のもとで資本や労働が最大限に利用された場合に達成できると考えられる経済活動水準と日銀によって定義されています。それは、資本ストックの利用量労働の投入量全要素生産性という供給サイドの3要素から算定されます。労働の投入量を労働時間と就業者数に分けると、全部で四つの要因に分解できます。
このグラフは、1983年から2024年にかけての潜在成長率、全要素生産性、資本ストック、労働時間、就業者数の半年ごとの前年比をパーセント表示したものです。1987年の労働基準法改正と前後して、労働時間の短縮が始まり、緑のグラフが0を下回っています。それでも、バブルの時代には、青の資本ストックが伸びたので、赤の潜在成長率のグラフは、1989年まで高い水準を維持しました。その後急落したのは、労働時間の短縮が原因ではないのかと河野は考えているのです。
ここで、先ほど取り上げたメインバンク制崩壊の影響を見ましょう。青色の資本ストックは、1997年から1998年にかけての金融危機以降、内部留保の積み増しを優先した結果、積極的な投資が控えられ、低い水準に留まっています。加えて、2016年以降は、電通の女性会社員が過労死した事件の影響で、残業が削減され、労働時間の短縮が顕著になっています。河野は、安倍元首相が推進した働き方改革も潜在成長率を低下させたとして問題視しています。
潜在GDPと実際のGDPとの乖離をGDPギャップと言います。バブル崩壊後、政府は積極財政でGDPギャップを埋めようとしました。しかし、潜在GDPが大幅に下落したのですから、財政出動でGDPギャップを埋めても経済を成長させる効果は高が知れています。では、どうすれば潜在GDPを増やせるのかという問題を次に考えましょう。
第二章 河野龍太郎の死角
メインバンクに依存できなくなった日本企業は、正社員の長期雇用を保障するために、内部留保を積み増し、その結果、人件費が抑制されているというのが河野の認識です。 それなら、日本人の賃金を上げるには、長期雇用をやめればよいという結論になるはずです。 ところが、河野は「長期雇用制は望ましい」と言って、その解決策を拒否します。 河野が、代わりに批判の矛先を向けるのは、株主至上主義のコーポレートガバナンス改革です。 河野はこう言っています。
メインバンク制の崩壊過程で、銀行と企業の株式の持ち合いが解消される際、健全な株式の受け皿を整えるべく、日本政府は、株主の利益に沿った企業経営が行われることを目指してコーポレートガバナンス改革を推進しました。[…]企業経営者は、株式市場が要求する高い配当や、四半期毎の高い利益を確保しなければなりません。結局、企業経営者は、国内ではコストカットに邁進し、人的投資や有形資産投資、無形資産投資はなおざりにされています。それが、この四半世紀に日本で起こったことではないでしょうか。2
河野が想定するように、株主がもっぱら短期的な利益のみを追求し、企業経営者に多額の配当を要求する我利我利亡者だとしましょう。こうした企業の長期的存続に無関心な株主の要求が通ることは、日本企業による内部留保の蓄積という事実と矛盾します。
もしも日本企業が株主至上主義なら、株主は、内部留保を投資に回して、企業価値を向上するように要求するでしょうし、もしも有望な投資先がないなら、利益剰余金を配当として還元することを要求するでしょう。その場合、株主は、配当を、より積極的に投資している成長企業への投資に使うので、どちらにせよ、投資は促進されます。これは河野の主張とは逆です。
『日本経済の死角』の副題は「収奪的システムを解き明かす」ですが、内部留保の目的が、株主への配当還元ではなくて、労働者の長期雇用の保障なのですから、株主が労働者を収奪しているのではなくて、むしろ労働者が株主を収奪していると見なければなりません。つまり、河野の株主至上主義批判は間違いであり、否定されるべきは、長期雇用制の方なのです。
河野が指摘するもう一つの日本経済の死角は、労働時間の短縮でした。私たちは、長時間労働であった昭和の時代に逆戻りすべきなのでしょうか。河野は、80年代から90年代にかけて日本で普及した完全週休2日制が経済にネガティブな影響を与えたことを不可避であったと見て、こう言っています。
本来、10から20%も労働時間が減る場合、時間当たり実質賃金が大きく上昇するため、ユ ニットレーバーコストの大幅な上昇や資本収益率の大幅な低下を避けるには、10から20%程度、生産性を引き上げなければなりません。しかし、それはまず不可能でしょう。3
はたして、本当に生産性を10から20%程度引き上げることは不可能だったのでしょうか。このグラフは、1950年から2019年にかけて、G7各国の時間当たり労働生産性がどう推移したかを示しています。これを見て分かることは、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた1970から80年代においてすら、日本は、G7においてナンバーワンどころか最下位であったということです。それでも、1996年頃までは、他のG7諸国と比べて、増加率に遜色はありませんでした。しかし、近年、日本の時間あたり労働生産性の改善は停滞しています。
バブル崩壊後の労働生産性をもっと詳しく見ましょう。このグラフは、1991年から2023年にかけて、G5各国の一人当たり労働生産性がどう推移したかを示しています。購買力平価によるドル換算だと、日本の労働生産性は、あまり改善していないことがわかります。それゆえ、日本の労働生産性は、米国の半分程度しかない水準の低さだけでなく、増加率の低さという点でも大きな課題を抱えていることになります。労働生産性を10から20%程度引き上げても、まだ不十分なぐらいです。
要するに、欧米よりも労働生産性が格段に低いのにもかかわらず、労働時間を欧米並みに短くしようとした結果、これまで長時間労働で覆い隠されてきた日本の欠陥が表面化したということです。それゆえ、日本経済失速の原因は、労働時間の短縮ではなくて、長時間労働でしか補えないほど低い労働生産性に求められなければなりません。
では、生産性を欧米並みにするにはどうすればよいのでしょうか。4年前の動画、「日本人はなぜ学力が高いのに生産性は低いのか」で述べたように、日本型のゼネラリストすり合せ型経営を欧米型のスペシャリスト組み合わせ型経営に変えなければなりません。そのためには長期雇用制を廃止しなければなりません。
第三章 実現に向けての見通し
河野は、日本の長期雇用制が行き詰まっている現状を認めつつも、制度補完性を理由に、抜本的改革を危険視しています。制度補完性とは、制度間のシナジー効果という意味です。
漸進的な改革は大事ですが、少なくとも社会制度に関して、政治家は安易に抜本的改革などと言うべきではないと思います。4
河野はこう言うのですが、むしろ制度補完性があるからこそ、全てを同時に変える「抜本的改革」の方が、少しずつ変えていく「漸進的な改革」よりも望ましいのではないでしょうか。
例えば、第一章で取り上げた日本の金融ビッグバンは、漸進的な改革の失敗事例です。企業が従業員の長期雇用を保障し、メインバンクが企業の長期の存続を保障し、金融当局が護送船団方式でメインバンクの長期の存続を保障するという制度補完性があるので、護送船団方式を廃止するなら、すべてを廃止する抜本的改革が必要であったのにもかかわらず、そうしなかったからこそ、企業は、内部留保の蓄積という対策を講じたのです。
負け組を作らない護送船団方式は、日本的な和の精神に合致しているので、好感を抱く人もいるかもしれません。しかし、負け組を作らない社会は、社会全体を負け組にします。それがグローバル化した現代の厳しい現実です。日本全体が負け組になると、国内の弱者を守れなくなります。それゆえ、弱い生活者を守るためには、弱い生産者を守ってはいけません。これが、しばしば誤解される新自由主義の基本的な考えです。日本の長期雇用制もすべての従業員を守る護送船団方式の一種なのですから、護送船団方式を廃止する時、いっしょに廃止する抜本的改革が必要でした。
長期雇用制が、本来政府の義務である社会保障の企業への丸投げである以上、長期雇用制を廃止するなら、政府が個人に直接セーフティネットを提供しなければならなくなります。企業に依存しないセーフティネットがあれば、転職や起業が活発になり、賃金と経済成長率が上昇します。こうした政策を公約に掲げている国政政党が日本に一つあります。それは、日本維新の会です。その公約、維新八策2024には、こうあります。
セーフティネットを確実に整備するとともに、労働契約の更改や終了に関するルールを明確化することで、働く人の権利を保護し、人材流動性を高めます。雇用の流動化により職業格差を解消するとともに、転職や起業が当たり前の「フレキシキュリティ(柔軟性+安全性)」が高い労働環境を創ります。5
ここで「労働契約の更改や終了に関するルール」とあるのは、解雇の金銭解決制度を念頭に置いたもののようです。国民民主党は、解雇の金銭解決制度に反対しています。
政府が実現を目指し、厚生労働省の検討会で議論が進められている「解雇の金銭解決制度」の導入については、現状ではかえって経営者による解雇権の濫用を助長しかねないことから、反対しますとのことです。6
立憲民主党の「政策集2024」にも同じような文言があります。おそらく両党とも連合の要望を取り入れたからでしょう。
自民党で長期雇用制の廃止に積極的なのは、小泉進次郎です。2024年9月6日に自民党総裁選挙に出馬した際、「賃上げ、人手不足、正規非正規格差を同時に解決するため、労働市場改革の本丸、解雇規制を見直します」と発言しています。小泉と日本維新の会は、竹中平蔵を共通のブレーンとしているので、政策がよく似ています。
今年の2月、自民、公明、維新の3党合意が形成されたとき、小泉は、「連立という形で政権与党に入って責任を共有していただくのが一つの筋ではないか」と述べ、維新に政権入りを求めています。他方で、日本維新の会共同代表の前原誠司は、農政改革に関して「小泉さんが党内の抵抗勢力と戦うのであれば、一緒に戦う」と発言していますが、戦わなければならない抵抗勢力は、農水族だけではないはずです。
もしも日本維新の会が連立政権に入り、小泉内閣が誕生するなら、雇用市場の流動化や企業を媒介としない個人への直接的な社会保障といった新自由主義的な改革が一挙に進み、日本人の実質賃金の上昇と失われた30年からの脱却が期待できます。これが、現時点で私が考えられる最良のシナリオです。そうなるかどうか、今後を注目していきたいと思います。
河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). 第1章 生産性が上がっても実質賃金が上がらない理由. p.48.
河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). 第6章 コーポレートガバナンス改革の陥穽と長期雇用制の行方. p. 205.
河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). 第5章 労働法制変更のマクロ経済への衝撃. p. 183-184.
河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』筑摩書房 (2025/2/7). 第6章 コーポレートガバナンス改革の陥穽と長期雇用制の行方. p. 201 - 202.
“厚生労働《働き方》 - 国民民主党 政策INDEX 2019.” Accessed 2019/07/22.